Fairy Tale ７
『会いたいな、俺も。お前の妹に』
アスランに言われたことが、ずっと、心に引っかかっていた。
マユ。
マユ。
会いたいよ、マユ。
アスランにも、会わせてあげたい。
こいつが俺の妹なんだ、可愛いだろ、って。
この人が俺の大事な人なんだ、キレイだろ、って。
『生きているのか？』
生きているに決まってる。
決まってるんだ。
棒で追われて、洞窟の檻へ戻る途中に見える、石造りの砦の、その下に、シンの妹はいる。
初めの頃、シンの周りには剣や槍を持った人間がたくさん囲んでいたけれど、最近はシンも大人しくしていたから、見張りは２，３人だ。たいしたことはない。
マユに会いたい。
会って。
生きていることを確かめたい。
寂しかったろ、って、慰めてあげたい。
シンは、一声大きく吠えた。
地獄の獣の咆哮。
周りの人間が怯んだその隙に、シンは、力いっぱい駆け出していた。
砦は無人に近かった。
シンは、簡単に地下室への扉を蹴破った。
光の射さない地下の檻。
それでも、シンには自慢の鼻がある。
闇を見通す鋭い目がある。
だから。
だから。
「マ、ユ・・・・」
腐臭はすぐに鼻を突いた。
無残な姿は、すぐに、その赤い目に入った。
ぽっかりと開いた眼窩、腐った肉。
鼻先でつつけば、ぐしゃりと嫌な音がした。
それでも大切な、シンの妹。
マユ。
マユ。
なんで、こんな姿に。
最後に声を聞いたのは、そんなに前じゃない。
だって、『お兄ちゃん』って。
確かに。
《お兄ちゃん》
何度も聞いた声が、狭い部屋に響いた。
シンは慌てて顔を上げる。
間違いない、これは、マユの声。でも、じゃあ、このマユは。
「今のうちだ、外に・・・」
「いや、ケルベロスだぞ。このままここに閉じ込めた方が良い」
「いいから早くしろ！大人しくさせているうちに！」
《お兄ちゃん》
マユの声、でも、マユはここで。
どこか、鼻がむずむずする。これは腐臭のせいじゃない。
思い出した。
昔住んだ妖精の里の近くで、時々かいだ匂いだ。
シンが姿を変える時にも、ほんの少し、広がる匂いだ。
今はもう、世界に薄い、『魔法』の、匂いだ。
《お兄ちゃん》
じゃあ、こいつらは、魔法でマユの声を作っていたのか。
シンは、妹の頬に鼻先を寄せた。
生命を失って、とてもとても、時間の経った遺体。
肉の落ちた毛皮。ひっくり返すと、中で骨が動いて、奇妙な形になった。
マユ。
マユ。
お兄ちゃん、馬鹿でごめん。
もっと早く・・・こんな姿になる前に、来てやれなくてごめん。
お前を、助けてやれなくて、ごめん。
アオオオォォォォン！
悲嘆の声は、檻の外まで、更に遠くまで響き。そうしてシンは、妹の亡骸を咥えて、立ち上がる。
この子を、仲間のもとまで連れて行ってあげなくては。
こんな暗い場所じゃない。故郷の、明るい緑の中に還してやらなくては。
入り口に、ちらりと人影が見えた。それから、そこを閉じようと、下りてくる鉄の格子。
シンは地面を蹴った。
闇を抜け、光の中へ。
剣も槍も、怖くなんかない。人間など、一息で薙ぎ倒せる。
口が空いていれば、この場にいる者を皆、噛み殺してやりたかった。
だけど今は、マユを咥えているから。
大事な大事な妹を、咥えているから。
こんなに、小さく、軽くなってしまったマユ。
ごめん。ごめん、マユ・・・
悲しみが体中に満ちて、それがすべて力になった。
精一杯手足を伸ばして、走る。
もう、人間はひとりも追って来ない。
当たり前だ、あんな奴ら。
あんな・・・人間なんか。
口の中の、小さなマユ。
すぐに、故郷に連れて帰ってあげる。
すぐに、すぐに、連れて帰ってあげる。
仲間のもとへ。
シンはそのまま、三日三晩休むことなく西へと走り続けた。
生まれ故郷の西の山脈へ。
その心も体も、悲しみと怒りでいっぱいで。
ついに、仲間のもとへたどり着いても、シンはただ、それだけではちきれそうになっていて。
アスランのことを、思い出すことが、できなかった。
シンの家族は、母親の病気を治すために群れから離れて暮らしていたけれど、それでも群れの仲間はシンとその妹を、あたたかく迎えてくれた。
へとへとのシンに食事と寝床を与え、妹のために、古来のしきたりにのっとった葬送を行ってくれた。
聞けば、捨て置かれた父母の遺体も、ちゃんと葬ってくれたのだという。
シンは、叔父にあたる人の、「助けられなくてすまなかった」との言葉に涙を流し、家族の隣に葬られる妹の遺体に花を添え、土に隠れていく姿に、また、泣いた。
「泣くな」と肩を叩かれて、頷きながら、また泣いて。
そうして、やっと落ち着いた頃、ずっと世話になっていた叔父に呼ばれて、シンは群れの集会に連れて行かれた。
父や母がもといたこの群れには、前にも何度も連れて来てもらっていたし、母の病気が治ったら、自分たちもここに来るのだと、シンも信じていた。
だから、この群れに迎えてもらえると聞いて喜んだし、感謝もした。
しかし。
「丁度いい年頃の子がいるんだ。近頃は子供も生まれにくくなって・・・君だけでも帰ってきてくれて、良かった」
そう言われて。
シンと同じ、黒い髪の女の子の前に、連れて行かれて。
その、自分と同じ赤い瞳を見て、シンは唐突に、あの緑の瞳を思い出した。
「う、わ。俺・・・！」
あれから、何日経った！？
アスランさんの水は？食べ物は？？
ひとつのことに夢中になると、他のことがおろそかになる自分の癖は知っていた。
それでも、これはあんまりだ。
いくら、マユのことで頭がいっぱいだったからって・・・
「すいません！俺、つがいになるって約束した人がいるんです！」
「ほう」
それは初耳だと、叔父たちが言う。
「それは、ひとつ山向こうの群れの子かね？それともはぐれの・・・」
「違います。人間です」
シンの言葉に、群れの皆が固まった。
「人間？」
しまった、と、シンは思った。
失敗ばかりで、もう何がなんだかわからない。
シンは、アスラン以外の人間が大嫌いだ。
ケルベロスは、もともと人間が大嫌いなのだ。
「人間、だけど。人間に捨てられて、いらないって。だから・・・」
「シン」
たどたどしく、しかし必死に紡がれたシンの言葉は、叔父の重々しい言葉にかき消される。
「人間がお前たちに何をしたと思っているんだ」
「人間だけど！アスランはやさしくってキレイで、俺・・・」
「シン、お前はだまされているんだ」
「違う！」
「シン」
諭すような、叔父の声。
まわりのみんなも、呆れたようにシンを見ている。
シンは、大きく息をついた。
ようやく止まっていた涙が、また、こぼれてきた。
今度は、自分とアスランのための涙だった。
仲間にわかってもらえないのは辛い。
仲間に受け入れてもらえないのは辛い。
アスラン、あんたも、ずっとこんな思いをしていたの？
「・・・ごめんなさい」
でも、今は泣いてる場合じゃない。
「俺、行きます」
一刻も早く、アスランのところへ行かなくちゃいけないから。
シンは、叔父に向かって深々と頭を下げた。
何かを言いたい。せめて、礼くらい。
でも、何も、言えない。
そうして、もと来た道を、走り出す。
あれから何日経った？
３日走って、葬送に２日。もう5日も、あの人を放ってしまっている。
シンがいなくては、者を食べることすらしない人。
水は汲んでおいたけれど、どう考えても足りない量だ。
アスラン
アスラン
ごめん。待ってて。
そうして必死に走りながら、シンは一回だけ、仲間の住む里を・・・家族の眠る場所を振り返った。
それでもすぐに、もう帰れないその場所に背を向けた。
後は、必死に。
ただ必死に、走った。